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自己啓発本は信じるのも信じないのもナンセンス。

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2006年に刊行されたロンダー・バーンの著者であるザ・シークレットについてWikipediaの説明文にはこう書かれている。

引き寄せの法則とは】
自分と似た者同士が引き合うという「引き寄せの法則」を掲げ、例えば富についてのみ考えることで富を得、豊かさのみ考えることで豊かさを引き寄せることができるとする。不快な気持ちを抱くと同じような思考が延々と続いてしまうのも、「引き寄せの法則」が発動するからであるとしている。
引き寄せの法則」によれば、欲しいものをイメージし、なおかつほとんどそれのみを考え続けることができれば、その欲しいものを手に入れることができる。
己の思考を知り、それを変えるための助けとして瞑想が勧められている。
ザ・シークレット - Wikipediaより


これの派生で様々な自己啓発本はあるものの゛願いが叶う゛系統の自己啓発本には大抵この程度の事が長々と書いてある。
この程度の事に付いて述べた引き寄せの法則を魔法のように信じる人も、全く否定する人も私からしたらどうかしている。

だって考え方や思想で人生が変わるのなんて言ってみれば普通の事であり、その逆に信じれば願いは必ず叶うとか書いてある本もどうかと思う。
確かに考え方と思想で能力に違いは出てくるだろうが人間には生まれ持った肉体と才能の違いがあり、妄想の世界では叶えたが現実では重度の精神病患者として隔離されるとかそういうオチでもない限り(そういうオチも含めて願いは必ず叶うと考えるなら話は別だが)そういう事はあり得ない。

海堂尊著書の『チーム・バチスタの栄光』には「夢はかなう。ただし、半分だけ。」 という言葉があるのだが、まあ大抵この程度が、願いが叶うバランスなのではないのかと思う。
100%叶う(もしくは叶わない)という人は、精神か肉体のどちらかを軽んじていて、だから偏った発言をしてしまうのではないだろうか。

しかしこの発言は医者であるが海堂 尊(本名非公開 )が、小説の中で書いた言葉であり、そうすると凡人かもしくは凡人以下の人間はもっと叶わないのではないかと思ってしまうが、オードリーの若林正恭の著書『社会人大学人見知り学部卒業見込み』には、大学生の頃、負の感情が強い自分に悩んで相談した時に若林が哲学の先生に「若い頃は理想を追うが、歳を重ねると相応なものを追うようになるから安心しろ」と言われたエピソードが書かれている。



話は変わるがこの本に収録されている゛馬鹿の定義゛では 若林が一流大学出身の家庭教師のアルバイトの経験をした人から聞かされた成績の伸びない子の特長が書かれている。
成績の伸びない子は「分からない問題にこだり続ける」対して成績の伸びる子は分からない部分を次々と飛ばし、わかることから済ましていく要領の良い子が多かったのだと言う。

若林自身が自己啓発を求める根暗な部分がある為、゛50年後の自分にまで計画を立ててノートに書く゛とかそういういかにもな話がこのエッセイには出てくるのだが、海堂 尊の話と若林のエッセイに書かれている私が抜き出したエピソードにはにわかに関係があるように思える。

゛成績の伸びる子は分からない部分を次々と飛ばし、わかることから済ましていく要領の良い子が多かったのだと言う゛
゛若い頃は理想を追うが、歳を重ねると相応なものを追うようになるから安心しろ゛

では成績の伸びた子供は分からなかった問題を最終的にどうしたのか。
相応な物を追うようになって、哲学の先生は理想にどう折り合いをつけたのか。
大学の哲学の先生も、成績の伸びた子供も恐らくは衣食住には困らないのだからそこにはヒントがある。

潜在意識なんて怪しげな言い方をする人もいるが、毎日考えて思っていることがいつの間にか自分になり、願いが叶うと言うのはごく自然な事だ。
ただその願いを叶えると言う事にだけ固執するとどうしても゛叶っていない部分゛にばかり目がいってしまい脳が叶えたいと思う夢とは反対の物事を見てしまう。
逆に叶いもしない物事を信じすぎると向こうの世界に言ってしまう。
あまりに不相応な夢は忘れてしまっても(もしくは叶わなくても)どうやって最後まで自分が満足してこの世を去るために必要な夢は忘れずに50%の方にねじ込む事ができるのか。
そういう事が鍵になってくる。

それに100%必ず願いが叶うとか語る人達は否定するかもしれないが、50%叶わない願いがあるとしてそれは本当にネガティブなものなのだろうか。

むしろ叶わなかったからこそ現在の自分を形成している大切な個性として25%くらいは受け入れるべきなんじゃないのか。

それは願いが全て叶う世界の方が理想だし、必ず願いが叶うと考えている人は私を哀れむだろうが叶わなかった願いも含めて一つの自分であり個性であり、それは私達が人間である限りただ嘆くだけの対象ではないと思う。
私としてはやはり叶わなかった50%のうち25%ぐらいは自分の個性として受け入れたい。




余談だが自己啓発本にはよく゛すでに叶ったように行動しろ、願い事は「なりますよう」にではなく「なりました」と書けみたいな事が(きっと脳を騙して願いが叶いやすくする為にも)書いてあるのだが、駄目押しで最後に感謝しろと書かれている著書も多い。

『「ありがとう」は魔法の言葉―ツキを呼び運命を開く』という本にそれは代表されるのだが、この「ありがとう」という言葉が何の意味があるのかと言うと一旦思考を止める役割があるのではないかと私は思った。

こういう類の言葉は言う意味合いが違っても

例えばキリスト教ならamen (まことに、確かに、そうなりますように、の意)。

イスラム教ならアッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり) 。

ナチス・ドイツならジークハイル(勝利万歳) 。

ソ連共産党なら同志スターリンに敬礼。

大日本帝国なら天皇陛下万歳。


だったりと宗教や国家には無数にある。
自己啓発本の場合は゛ありがとう゛という文言を唱え一旦思考を中止する事で、否定的な(自分を洗脳する上で邪魔になる) 感情を抑止する為にあるのだが、言う意味合いや誰が誰を洗脳するのかと言う意味が違ってもそういう言葉は上に書いた様に存在している。
集団の場合は何々に゛捧げる゛というような意味合いが含まれた言葉が多いのだが改めて見てもよく出来ている。
どちらにしろ自分の行いを一旦棚に置き、そして正当化させうまくストレスにならないように忘れさせる意味合いが強い。
それを踏まえて私は1日前の文章を書き本当は今日書いた自己啓発本の話に繋がるはずだった。