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植松聖容疑者が空けそうになったパンドラの箱の最後の厄災。

嫌われ者のブログ 社会

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始めから最後まで成長しても福祉とは切り離せないという存在でありIQも人より低い。
多くの人間は運命は変えられると考え、落伍した人間を努力不足だと断じる。
しかし彼らに努力不足という言葉が投げ掛けられないのは彼らにたいして多くの人は″運命を変えられる″という認識をしていないからだ。
人間意外の動物にも″努力不足″という言葉を吐く人は少ないのだから、大変な差別をすると同じ系列で
見られている。
それは人間として生まれたにしてはあまりにも稀な認識のされ方だ。
現代社会に置いて彼らだけがパンドラの箱の最後の厄災の一つを開けてしまったのかもしれない。

厄災だらけのパンドラの箱を空けたとき時、人類は不幸になったとされているが最後の厄災である希望が飛び出る前にパンドラはかろうしで箱を閉め、だからこそ人類は希望を失わずにすんだのだと言う。
しかし厄災だらけのパンドラの箱に希望なんてものが入っているのはどう考えてもおかしく、そもそも他の厄災は箱の外にでてから効果を発揮したのに対して、どうして希望だけは箱の中にいながら効果を発揮できたのだろうか?
むしろ希望まで一緒にでてきて、希望が箱の中から出てきたからこそ人類は厄災だらけのパンドラの箱を開けても希望を失わずに生きる事ができた、でなくては可笑しい。

私はパンドラの箱に最後まで残ったていたのは未来予知だったという説を指示する。
未来を予知できないからこそ人間は無駄な努力をして希望を持たなくてはいけなくなったでは話がえやこしく、だからこそ分かりやすく″パンドラの箱には希望だけが残った″という言い回しに変えたのではないだろうか。
しかしやはりここでも重要なのはパンドラの箱に最後まで残った未来予知とはいかなる厄災なのかと言うことだ。
その答えを我々は知らない。




植松聖容疑者が障害者を殺して何をしたかったのかは私的にはあまり興味がない。
仮に言うなら植松聖容疑者の犯行のような世論を作らせないために世の中は″やまゆり園″のような場所で暮らす人々について積極的な議論をしたがらない。
仮に今の腫れ物的扱いを辞めて積極的な議論を開始して、もしも仮にあまり口にはしたくないが″そういう結論″に達すれば話は知的障害者だけでは収まらない。
人間は将来的に経済を潤さないであろう人間に対して常に″消すもやむ無し″という結論を持っているという答えを照らす事になる。

パンドラの箱に最後まで残った未来予知が厄災である事に対する答えとは、″人間は未来が分かると役に立たない人間を殺してしまう″であるとすれば、少しは納得がいく。
知的障害者は唯一の未来の分かりきった人類である″未来予知″の使者として私達の行く末を試しているのだ。




仮に世の中の運命があらかじめ決まっていたとしよう。
私は自分の怠惰で嫌われているわけではなく、それが自身の役割だと知って多少ハッピーだし堂々としておける。
しかし未来は決まってないと信じているからこそ皆なあなあにしているだけで、世間は運命的に人に嫌われる為に生まれてきた私を許すだろうか?
一生あの調子なのが確定しているのなら殺すべきだという議論は必ずでてくる。
それから先はどうなるかは分からないのだが、だからこそ未来予知は厄災なのだ。
その厄災の箱を開けないためにも知的障害者に対する議論はこれからも腫れ物に触るようにするべきだと思う。